師を選ぶべし。
至極当たり前のことであるが、稽古相手を選ぶ(師を選ぶ)ことは
剣道昇段の修行において、本当に重要ではないかと思う。
先生によって、指導方針が全く異なるし、剣風も、性格も違うわけで
単に強ければいい。試合の実績や肩書のある方が・・・または、段位が上の方がいい。
決して、そういう問題ではない、と確信している。
自分が目指す道に、ぴったり合う教え方の先生もいれば、そうでない先生もいる。
同じ打ち方をして、「それでいいんだ。」と褒めてくれる先生もいれば
「それよりも、こうしなさい。」と、諭す先生もいる。
納得する打ち方で、こちらの欠陥に気付かせたり
逆に絶妙の機会に打たせて、長所を伸ばすのが上手い先生がいれば
理合もわからぬまま、ただただ滅多打ちにして
自己満足のみで稽古を終わる先生とで、完全に分かれている。
自然、並んでも必ず稽古をお願いしたいと思う先生と
なるべくなら稽古したくない先生が、自分の中ではっきりする。
稽古時間が短い、ということは、自分が稽古を「お願い」することで
自分の技量を伸ばしてくれることを、充分期待できる先生を選んで、稽古すべきなのである。
自分の潜在能力を信じるには、まず先生の教えを信じて、遂行していかなければならない。
模範として、あこがれている先生方は、近間だけで一方的には打たず
まずは、互角稽古でじっくりと、遠間から剣先の攻めと気を練ってくださる。
相打ちで、こちらがどんなに打ち負けても、打つ時は捨て身の思いきりが大事なのであって
その結果、出ばなを抑えられることを考えても、仕方がないことである。
返されたり、打たれたりすることを怖れず、自ら攻めて出なさい。
・・・と言われ、稽古中に何本か惜しい打ちや
捨てきった一本が入ったりすると、何度も頷いて納得、感心してくれる。
自分は、先生に認めてもらうことが嬉しく
次は、さらに先生を驚かせる打ちを繰り出そう、と努力奮闘する。
しかし、「こうして打ってやろう」などと作戦を考えて、工夫したつもりで打った技が
先生に決まったことは、これまでに一度もない。
何十本も食らう中で、いつもどうにかして稽古中1~2本決まるのは
「これで外れたら、しょうがない。」と、一か八かで先手を打った、色のない技ばかりである。
「ああ~、へっぽこな自分でも、こんなにすごい先生から一本とれるんだなあ。
これなら、なんとか審査本番でも、いいとこいけるかもしれない・・・」
~という、錯覚のような自信を得られるのは、先生の思惑によるものかどうかわからないが
稽古上手な先生の効果に違いない・・・。
ある先生と勝負して調子がいいと思いきや、別の先生に対しては成す術なく
ボコボコで終わることもあり、自分が上達しているのか下手なままなのかわからず
不思議に思うことがあるが、それも稽古内容の違いによるところなのかもしれない。
どの先生を師事するにせよ、その先生に求めるものを確認した上で
貴重な稽古時間を過ごさなければ、あらゆる鍛錬も身体を動かすだけになり
真の修行の意味を成さないであろう。
2012/05/09 23:34 | COMMENT(1)